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現場レポート

病院での即興的な音作り 第2回

佃 文子

「あなたは自分の睫に音楽を聴いたことがありますか?」

 これは作曲家佐藤慶子氏の著書「五感の音楽」の帯に書かれていたものである。ここで紹介したのは、まさにこのような動作を私が見舞っていた青年がしたからである。

 青年K君は、教え子と同じ病院に同時期に入院していたが、私は教え子M君のお母様の紹介でライアーを奏でて欲しいと依頼されたのである。この頃のK君は、主治医からは「聞こえて無い・見えてない」状態と言われていた。言語はほとんど発せられない状態であった。

 初めての日、ペンタトニックのライアーを弾きながら、即興で
「♪初めまして~お母さんの友達の佃で~す。K君~お元気でしたか~ ご機嫌はいかかですか~♪」

とこんな調子で挨拶をし、「Dona Nobis Pacem」を歌い始めた。まさにその時、彼の睫が動いたのだった。この瞬間、私の脳裏にかつて読んだ本のあの帯のフレーズが過ぎったのである。

「睫に音を聴いたことがありますか?」

「あっ、睫が動いた。聞こえてる?聞こえてるよね?絶対聞こえてるよね」。

 彼の体と心が平安になるようにと願いつつ、私はアカペラでこの曲を歌った。睫が動いたことにかなり私の感情も高まって、また喜ばれるお母様からのアンコールもあり、渾身の力で彼の表情を見ながら数回歌い続けた。

♪ 瞼が少しずつ開いた

♪ 瞳が声のする方向へ移動した

♪ 顔面が紅潮してきた

♪ 笑い顔のような表情を見せた

♪ 上半身がびっくりしたように起き、大きなくしゃみをした

 最後の行動は全くの偶然とはいえ、本人の身体が起きあがったことはベッドに横たわって以来、初めてのことだったということであった。足先が動き、手元が動いたのを目の当たりにしたお母様はびっくりされながらも喜ばれていた。

 ライアーの弾き方をお母様に教え、毎日、彼に聴いてもらうようにした。訪問して曲を弾いてあげたり歌声を聴かせてあげると、眠そうにしていても彼の目が開き表情には笑みが見られるようになった。

 病院通いと共に始まった私の本格的なライアーレッスンは、キンダーハープ・ミニライアー制作者のM氏にお願いし、半音を含む35弦のソプラノライアーを少しずつ弾けるようになっていた。

 曲が弾けるようになって初めてのレッスン後、二人の病室でライアー二重奏をしてあげた。いつもより音の広がりがあり、おそらくふくよかな音世界になり彼らの身体にも響きが大きく伝わったようだった。そして今までペンタトニックしか弾かなかった私が大きなライアーを弾いたので、覚醒していたM君はびっくりし、喜んでくれた。病院でのライアー演奏はM氏のソロと私との二重奏を時々行うこととなった。

 ライアーの響きの何がこのように身体に影響を与えるのか、この時まだ私はこの楽器の432Hzという周波数について深く考えてもいなかった。少なからずこの周波数が臓器の周波数に関係するのではと思っていたくらいである。よくいう、せせらぎや風に癒されるたぐいのものなのかどうかわからないが、ただひたすら心地良い響きを彼らの身体に伝えたかったのである。

 K君は一進一退であったが、ある時はリハビリに連れて行ってもらったり、車椅子に乗せてもらったり快復の兆しもあった。私が訪ねた、ベッドに寝たきりから考えるとすごいことであった。ライアー演奏も車椅子で聴かせてあげられるようになった。この頃、彼の目は開くときはバチッと開き、とても視力が無いとは考えられなかった。そして、いつもライアーを聴くと表情が和らぎ紅潮してくるのであった。食道の関係で口からの食事が出来ないのだが、口元も左右に動くこともあった。

 年を越して翌年の春に、K君は故郷の病院へ転院していった。最後のお別れにはミニライアーで即興の曲を奏でた。彼の黒くて長いあの睫と大きく見開いた目が物を言わずとも何かを語っているようであった。何も語らずとも、半年ほどのお付き合いで表情を見ていると会話が出来ているように思えた。彼が語らずとも、私は常に必死で彼に語り続けていた。この気持ちが彼に通じていたのかもしれない。

 M君はリハビリが始められるほどになり、日ごとに握力も増していた。彼の胸中を思うと言葉が空虚になることもあったが、彼の戦う精神を思ったら私の新しい楽器への練習なんて比べ物にならなかった。彼の姿とライアーの響きのおかげで挫けそうになる練習をこなして、ライアーアンサンブルにお声をかけていただけるまでになった。

 この楽器に出会ったことで、素敵なご縁が生まれていっている。

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